日本古代史の謎、未だ解明されていない謎について(その13):崇神天皇、ハツクニシラス天皇
崇神天皇、ハツクニシラス天皇
第十代崇神(すじん)天皇の時代に、疫病が流行りました。すると、天皇の夢に大和の神様である大物主神が現れて、自分の祟りなので、自分を祀るように告げます。そこで、末裔のオオタタネコが大物主神(オオモノヌシノカミ)を三輪山に祀り、さらに天と地の神々にも社を定めて祀った結果、猛威を振るった疫病が止みました。また、三輪山近くに崇神天皇が宮を置いたことで、王権と大和の神様との関係が深まりました。
この王朝の範囲はまだそんなには広くなく、従わない地域に王権を広めるために、将軍たちを送り、諸国平定していくことになります。北陸地方の越の国や東海地方の東国一帯に、それぞれ将軍を派遣して、国々を統合していきます。吉備の国の平定も含めて、四道将軍の話として伝えられています。
また、崇神天皇の事績としては、戸口調査や徴税等の具体的な施策も記載されています。
マイ古代妄想(私の個人的な解釈による誇大な妄想)
崇神天皇はこれまで登場した天皇とは違って実在した初代天皇といわれています。確かに崇神天皇に関する記述は具体的で、より実在感があります。これまでは、徴税をしたなどの政策に関わる記述はなかったので、何らかの史実に基づいているのではないかと思います。
大物主神を三輪山に祀り、八十万の神々を祀ったことは、この国の神々の祭祀権を握ったことを物語っており、このことは政権の基盤を確立したことになるのだと思います。そして、四道将軍の話のように諸国平定していくことで、大和王権がこの国で確立されたことを示す意味合いが強いようです。実際に諸国平定に関しては史実と異なることもあるようで、フィクションである可能性が高いようですが、ここで崇神天皇の偉業を示すことに目的があるようです。
崇神天皇はハツクニシラス天皇、初めて国を治めた天皇という意味の名前がつけられていますが、初代神武天皇との違いは何なのか、なぜ二人も同じような名前がつけられているのかという疑問が浮かびます。このあたりの謎は興味深いですね。
日本で文字が使われたのは雄略の上表文である。この雄略は「武」である。したがって「倭の五王」以前の天皇は創作された存在である。私は「日本書紀の解体新書」を発刊してこれについて述べている。
日本書紀にはシンメトリーがあります。このシンメトリーの中心になった仲哀の即位年が作られたのは、七支刀です。日本書紀は七支刀を252年に置いています。これは卑弥呼の遣使の239年と壱与の遣使の313年を足して2で割ったものです。そして252・5年から60年を引いた192年が仲哀の即位年で、252年に60年を足した313年が仁徳の即位年です。そして「倭の五王」の斉こと允恭の遣使を32年繰り上げて412年とし、継体没後の532年に即位した欽明を540年に引き下げ、天武を即位式を行った673年として481年を作り、これを仲哀から孝霊までの481年に反転して962年のシンメトリーが作られたのです。日本書紀はシンメトリーで作っているのです。
日本書紀の40人の天皇の即位年で干支の「甲子から癸亥」を一行とする60年単位の年表を作ります。すると「一行一人」「一行三人」「一行多数」という画期が出来ます。「一行一人」は神武から応身まで、「一行三人」は仁徳から武烈まで、「一行多数」は継体から持統までです。
これは「一行一人」は神話伝説の天皇群で、「一行三人」は倭の五王を翻訳した天皇群で、「一人多数」からは実在が確実な天皇群となります。現在は崇神からは実在としていますが、この年表からは崇神も架空の天皇となります。
七支刀の②。前に七支刀が仲哀と仁徳の即位年を作っていると書きました。今回は230年の七支刀と、480年の七支刀で神功の称制元年と神功の没年が作られたことを記します。
230年に91年を足しますと321年となります。これから120年引くと201年となります。これが神功の元年です。
次に480年から91年引くと389年となり、これから120年引くと269年となります。これが神功の没年です。
つまり七支刀は神功の即位年と没年を作り、仲哀と仁徳の即位年を作っているのです。
継体天皇は「易姓革命」の覇者である。国宝に「隅田八幡神社人物画像鏡」というものがある。これには「斯麻」「癸未年」「日十大王」「男弟王」という文字が記されている。
このうち「斯麻」は百済の武寧王である。武寧は墓誌によって523年に62歳で没している。この武寧の「癸未年」は生涯で1回だけで502年だけである。その502年の倭王は武烈であるから、「日十大王」は武烈である。残るのは「男弟王」であるが『古事記』の仁賢紀に「手白香皇女・武烈天皇・真若王」がいると記している。
すると「男弟王」は「真若王」ということになり、武烈の没後に即位したことになる。したがって『日本書紀』は継体が朝廷の総意で即位したとするが、これは偽りで20年間磐余玉穂に入れなかったのは都に真若天皇がいたためということになる。そして526年に真若天皇に譲位させて継体は即位したのである。
したがって『日本書紀』の継体の252年とする治世は真若の20年、継体の5年と改正する必要がある。
神武即位(辛酉)がBC660年の理由。平安時代の三善清行は斉明7年(661)から一蔀遡った年としました。これに対して明治の那珂通世は、一蔀は1260年であるから、推古9年(601)から一蔀遡った年だと主張してこれが今日の定説です。しかしこれは間違いです。
何故なら斉明7年にも推古9年にも歴史編纂を思わせる記事はないのです。歴史編纂は天武が681年に編纂を命じているのが確実です。この681年の干支は辛未で40年後の干支は721年の辛酉です。つまり天武は40年の猶予を与えて『日本書紀』の完成を命じたのです。そして辛酉は『日本書紀』の完成予定年の721年の干支なのです。
それから当初の神武即位はBC540年だったのです。ところが『日本書紀』の完成近くになって卑弥呼と壱与をどうするかが問題となり、二人を合わせた神功皇后を創作したのです。そのため仲哀と神功の夫婦、そして息子の応神を作ったのです。これは仲哀の即位がBC192年で応神の没年(含む空位)がBC312年と120年に収まることで証明できます。こうして神武の元年はBC660年となったのです。
神話には「アメノコヤネ」と「タケミカヅチ」が登場します。この二柱の神は中臣氏の氏神です。「一氏族一氏神」とすると異例です。
この二つの氏神が出きた理由は「丁未の変」の結果です。「丁未の変」を仏教の受容を争ったとするのは間違いです。なぜなら物部氏の本拠の八尾市には渋川廃寺があり物部氏の寺と考えられるからです。
この戦いは天皇本系の彦人大兄を押す物部・中臣連合軍と、崇神を押す蘇我馬子の皇位争奪戦だったのです。そして馬子が勝ち崇神が即位したのです。この戦いで中臣氏は勝海が戦死して断絶しました。朝廷では宮中祭祀が途絶えるのは困るので、常陸から加多能古を招き中臣氏を授けたのです。この滅びた勝海は河内一宮の牧岡神社が氏神です。そして常陸の一宮の鹿島神宮が新中臣氏の氏神なのです。
これを証明するのは春日大社です。春日大社は768年に建立されました。祭神は鹿島の神・香取の神・牧岡の男神・牧岡の女神の順です。そして10年後の778年に牧岡神社に鹿島と香取の神を合祀しました。順序は牧岡の男神・牧岡の女神・鹿島・香取の順です。
加えて新中臣氏は勝海を消して、黒田ー常盤ー加多能古を書き入れました。そのため同時代の勝海と加多能古
は曾祖父と曾孫の関係になったのです。
大鏡は鎌足を常陸からの養子とするようですが、これは間違いで鎌足は加多能古ー御食子—鎌足とつづく飛鳥で生まれた三代目なのです。
神武即位の「辛酉」について述べます。平安時代の三好清之は「斉明七年」とし、明治の那珂通世は「推古九年」としました。これは神武即位から1260年下るとそしの日になるということです。
しかしこれは間違いです。なぜなら斉明にも推古にも歴史編纂に関する記事はありません。歴史編纂を命じたことが確実なのは天武天皇です。その年は681年です。その年の干支は「辛巳」で40年後の干支は721年は「辛酉」なのです。つまり天武は40年の猶予を与えて721年を日本書紀の完成予定年としたのです。
小島憲之は「出典書名分類表」をつくって「日本書紀は」宋書を参考にしていないと記しています。しかし記紀は「宋書」を参考にしているのです。その理由は以下の通りで間隔が57年と同じで証明できます。
宋書 初遣使 讃 421年 武 478年 間隔は 57年
古事記 没年 履中432年 雄略489年 間隔は 57年
日本書紀 即位 履中400年 雄略457年 間隔は 57年
七支刀は369年の制作とされ今日の定説となっています。しかしこれは間違いです。まず明治政府に石上神宮の神主に任命された菅政友は七支刀の錆を小刀で削り、「大和四年五月十一日丙午」と詠みました。該当するのは230年・369年・480年があります。政友は神功皇后と隔たりがあるので困惑し、「大和四年五月十一日丙午」を削り泰始四年とするため、「大■四年■月十■日丙午」の部分を削ったのです。
しかし政友の改竄にも拘わらず、戦後に福山敏男が「大和四年五月十一日丙午」と解読しました。そして福山は七支刀を369年と主張して今日定説となっています。
しかしこの説は369年の5月の27日に「丙午」の有ることを見逃したのです。したがって福山の説によると369年5月には福山が主張する吉祥説の「十一月丙午」と暦の「27日丙午」と二つの丙午があることになります。
福山の主張は369年の5月には「丙午」がない。「丙午」のない月の「5月丙午は吉祥句」であるから「十一日は丙午にあたる」というものです。しかし事実は27日が「丙午」です。つまり福山の前提は成立しないのです。そして「11日丙午」が合致するのは480年5月11日の丙午が合致するのです。
七支刀の制作は480年です。この刀は雄略の応援で百済王になった東城王が感謝のため即位の翌年に贈ってきたのです。そして「隅田八幡人物画像鏡」は東城王の前例に倣った百済武寧王が即位二年に贈ってきたものです。
今回は蘇我氏の成立について述べます。まえに継体が真若天皇に譲位をさせて「易姓革命」を行ったと述べました。このため真若王の子の稲目が臣籍降下をして「蘇我氏」を名のったのです。
さて古代は自給自足ですから豪族の富と権力の源泉は土地です。この古代には競馬場も銀行もありませんでした。従って武烈までの時代に名も出てこない無名の蘇我氏が突然欽明の時代に大土地を所有して大臣になれるは無理なのです。
ただ一つ可能なのは稲目が真若の子であり、真若の土地を相続した時だけが可能なのです。蘇我氏は前天皇であった、つまり仁徳朝の末裔だったのです。