書評・読書ログ:暇と退屈の倫理学:國分功一郎

暇と退屈の倫理学

國分功一郎(著)、太田出版

現代の文明社会においては、生きていくために必要な仕事ばかりに四六時中費やしている人はほとんどおらず、人は忙しい中にも何かしらの自由に使える時間を得ていると思います。そして、その自由な時間をどのように過ごしたらよいかわからずに、人は暇と退屈を抱えて生きているようです。そんな中で、その自由な時間をどのように過ごしたらよいかについて考える一助になればと、本書を読んでみました。

そもそも私たちは、余裕を得た暁に叶えたい何かなど持っていたのか?という疑問が出てきますが、現実は、願いを叶える余裕を手にした人々が、今度は文化産業に好きなことを与えてもらっている状況であると著者は述べています。

本来は、余裕を手にした人々が、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れるべきで、暇と退屈の倫理学が問いたいのはこの問いであるということです。

退屈と向き合うためには、熱中できる気晴らしが必要ですが、その気晴らしには苦しみや負荷が必要で、退屈する人間は苦しみや負荷を求めているそうです。

退屈している人間が求めているのは楽しいことではなくて、興奮できることで、幸福な人とは、楽しみ・快楽をすでに得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることができる人です。つまり、幸福であるとは、熱意を持った生活を送れることだということですが、確かに何か熱中できるものがあることは、暇と退屈には必要なことだと思われます。

その熱中できるものとは、何か特別なものではなく、たとえば、衣食住を楽しむことや、芸術や芸能や娯楽を楽しむことです。そして、人間はそのような楽しみを創造する知恵をもっていて、そこから文化や文明と呼ばれる営みも現れたと著者は述べていますが、私もそのとおりではないかと思います。

つまり、暇と退屈があったからこそ、文化や文明が発達してきたのではないでしょうか。

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