日本古代史の謎、未だ解明されていない謎について(その20):継体天皇と王朝交代説

継体天皇と王朝交代説

第25代武烈天皇が崩御して、直系の皇位継承者が誰もいなくなり、皇統断絶の危機が訪れます。そこで、大伴金村が応神天皇5世の子孫で、北陸にいるオオドノ王を次の継承者に立てることにします。そして、オオドノ王が河内の樟葉宮で即位して、第26代継体天皇が誕生します。継体天皇は第24代仁賢天皇の娘、手白香皇女を皇后に迎え入れます。

即位後、継体天皇は次々と遷都を行います。樟葉宮の次は山城の筒城宮に遷宮し、その後山城の乙訓に遷ります。そして、即位後20年もの年を経て、ようやく大和の磐余に宮を置いて、大和入りを果たします。

このように、大和入りが遅れた理由のひとつとしては、継体天皇については、北陸の豪族が攻め上がり、旧王朝を倒して新王朝を立てるのに、時間がかかったからだという王朝交代説があります。

マイ古代妄想(私の個人的な解釈による誇大な妄想)

皇統断絶の危機が訪れたのは、第21代雄略天皇の時代に皇位争いのために、皇位継承者が尽く殺されたのが一因ではありますが、当の本人はそのようなことになるとは思っていなかったでしょうね。

なんとか継体天皇に皇位が引き継がれましたが、その当時は誰が皇位を継承するかで、かなり揉めていたと思われます。そのような背景から、王朝交替説も出てきていると思いますが、継体天皇が即位しても従来の臣下がそのまま仕えているので、王朝が入れ替わったというのは、少し無理があるように思います。

ただし、大和入りに時間がかかったということは、継体天皇の即位を快く思っていなかった勢力があったためだと思いますので、必ずしも歓迎された皇位継承ではなかったのでしょう。そんな中で、筑紫の磐井が反乱を起こしたので、その鎮圧に継体天皇のもとで各勢力がまとまらざるを得なかったという背景もあると思われます。

また、継体天皇の没後に、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇と継承していきますが、安閑と宣化の母は地方豪族だったために、実際にはすぐに欽明天皇が即位して、それぞれ別の政権が並立していたのではないかという二朝並立説もささやかれています。

とにかくこの時代は皇位継承を巡っていろんな勢力争いがあったのだろうと思います。

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日本古代史の謎、未だ解明されていない謎について(その20):継体天皇と王朝交代説” に対して1件のコメントがあります。

  1. 加藤 季夫 より:

    古墳時代に東アジア各地から多数の移民があったことは最新の遺伝子DNAの研究から明らかになってきた。当然、移民の人々と他の人とは言語などが異なり、意思疎通には時間がかかる。継代天皇が大和に入るのに時間がかかったのは継代天皇のグループが移民で、言語が異なるため、意思疎通にかなりの年月がかかったと考えれば納得がいくのではないかと思う。遺伝子DNA分析の最新情報は、古墳時代を従来の考えを大幅に見直すきっかけとなると思う。もう文系頭の出る幕ではない。

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